昭和三十九年十一月十八日 月次祭御理解


 ある婦人教師の方が、学院を卒業された。そして金光様の前に出られてから、これからの布教方針となるような信心。どういうような信心させて頂いたら、人が助かり、自分も助かっていくことが出けるかという事をお伺いされた。私は無学に近い年寄でございますから、どういうようなお話をさせてもらったり、どういうようにお取り次させて頂いたら人が助かりましょうかと言うてお伺い申した時に、金光様が仰った。
 親切一つあれば、助かりますと仰ったそうです。親切一つあれば助かる。四神様、真一つあれば助かると仰った。してみるとこの真と親切というのは、だいたい同じようなものではなかろうか。真そこのところ、私どもには分からないと。出来るだけ親切にさせてもらわな。親切にならにゃいけん。どんな事も真をもってしなければならない。真をもってやらなければならないと。真一つで助かる。親切一つで助かると仰る。その親切が真がといわゆる真心が、私どもの心に薄い、欠けとる。そこに私どもの助かりの場というものがなくなる。これじゃないかと、だから信心というのは、いわゆる真心とは真心とは、とういう真心の追求をすることである。
 そこで今日、私は、真心ということについて、皆さんに聞いてもらいたい。私はよく神情と人情ということを言う。それを神ながらという。又そういう普通でいう言葉なんですけど、人ながらとこういう。その神ながら人ながらと言うならば、人情とね。人情では助からない。人間心を使いすぎると。けれども私は人間心ということに、言うなら心情と、言うなら親切です。親切も過ぎたらもう及ばざる如しという事になる。なかなかむつかしい。
 いかに何事にも信心になっておらなければならんと分かる。信心する者、何事にも信心になれよと。信心させて頂く者は、木の切り株に腰をおろしても立つ時には、礼を言うような心持ちになれ。私どもがその木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言うような心持ち。そう言うような心持ちがです、私どもが信心する者は、何事にも信心になれよと仰るところを行じて行きよらんとそれが出てこんのです。信心する者は、何事にも信心になれよという信心になっていきよりませんと、ややこしなりましたかな話が少し。
 今日お昼、私、お食事をさせてもらいよりました。先生方三人、高芝さんが、今日私が漬けた、高芝のその大将が漬けた漬物を今朝、朝のご祈念に持ってきて下さった。なかなか美味しいんです。だから私は、あれにコショウを振りかけて頂くんです。美味しいんです。私の方ではもうコショウを味の素のごとたくさん使うですね。ですから、先生方誰にでもかけてやる。ところが古賀先生とにかけよったら、どさっと出てしもうたんです。私の親切が私のいわゆる真心が出過ぎたわけなんです。上野先生がもう憎して入れたんじゃなかけん堪えてよって。人間にはね時々そういう事があるんです。やっぱり人情というのがです本当に慎みを持った真心じゃなからにゃいけないという事。こりゃこの人ば、いっちょ辛か思いさせようと思うてから入れたわけではない。美味しいようにと思うてかけたけれども、いわゆる実意が足りなかった。ガバッと出てしもうた。この人情の中にはね、そういう人情のなるほど憎うしてしたのじゃないから断りを言や断りを聞いてもらえるけども。これがこの位のことで良いけれども、それこそ命にでも関わるち事に、あんたば殺さにゃちしたけんじゃなかけんもう殺したちなかばってん殺したち事になった。だから本当言うたら、その親切とか人情というのは非常にむつかしいと言うて、使わなかったらいつまで経ってもおかげにならん。
 今日、私は、その神情と人情の真ん中に真心というのがあるという事を皆さんに分かってもらいたいわけね。神情と人情の真ん中なんだ。真心とは。その真心一つで、人も助かりや自分も助かられるのだから、その真心をどうでも追求して、私どものものにしていかなければいけないでしょうね。特に私、実意をもって例えばコショウを振りかけとったら、そりや真心だったでしょ。ところがうかつにとしたところに、ガサッと入った。もうここには言わば過ぎてしまって、そりやもう真心じゃないという事になるですね。親切でもそうなんです。もうとにかくもう神情に近い心をもってです、実意丁寧神信心をもって、コショウ一つ振りかけてやるにもしなければいけないことが分かるでしょ。
 ここの上野先生が今日四時にお引き寄せが済んでから、二階に上がってきた。私はそのね。そしたら、そこんとこ布団の横にうっついてから休んでしもうた。私あんな時にですね、ご無礼してから休もうち始めから寝ろうと思うてから寝た時に起こそうと思うたけれどもね、ちょっとうっついた。もうとにかく眠いと。眠いとが重なっておるもんですから、寝てしもうた時にはもう本当にそのまま一時もうぐっすり眠ったらという思いがする。私が毛布持ってきて掛けてやった。毛布を掛けたらちいっと温なった。だから足を出してこう投げ出した。それから毛布をこう長くしてやった。そしたらいよいよこうして寝てしもうた。それからばあちゃん、軽い布団でも掛けてやんなさいち言うてから布団を掛けさせた。そして私が私自身が有難い、静かに静かに、起きらんごと起きらんごと足音を忍ばせてから襖開けて下に降りてきました。やはり人情なんです。けれどもこの人情は私、真心だと思う。私はもう親切、自分は親切真心を持ってという中にはね、もう本当に実意丁寧神信心なされなければいけないと思うね。
 先日から永瀬さんと福芝さんと二人で、親教会に福岡の小倉教会にそこに教会設置問題のことでお話を承っておったそのご返事が、あまり長くなるのでまあ伺い方々お出でられた。まあその時に、いろんな話がありました中に、まあいろいろとここの事を先生が心配なさっておられる。親先生は親先生なりにやはり、ご心配下さっておる。長男があちらで修業致しておりますから、お道の教師の資格は取ったけれども、まだ信心は出けておらん。そこで親先生は親教会に三年なり五年なりおいてからしっかり信心を身に付けさせて、そして教会でも持たせようというお腹らしい。それでまあー勝彦が二、三年もここで修業させて頂いたら、それから教会認可のあれを取ってそれももう私が一時ばかりは勤務教会長で行けばという話があった。
 私はそれを聞かせて頂いた時にですね、こりゃこのおかげを頂かねばいけないなという事は、これはねどうでも一日も早よ言わばこうして十五年間今日までおかげを頂いておる。看板も上げるなと言や看板も上げず、さあ大祭に旗一丁上げるなと言われるから、旗も上げん。言うならまあ人情から人情の椛目の状態である。こりゃ一日も早よ独立せにゃいけんなと私は思うた。それは椛目のためでなく親教会のために、こりゃ一日も早よ親先生から一日も早よ椛目を教会になさり、そして私に教会の職を与えられるならば、長男も早く長男を教会長として、ここに教会を開かないけないと思うた。何故かというとです。
 昨日も私、月次祭でございますから、ここからちょうど六名の者がおかげ頂きました。善導寺の方のご信者さんが七名お参りがあっとった。いわゆる都合十三名楽人さん共々、言うなら椛目が半分はお参りしておった。けれどもね、その中にお椛目のご信者さんがお参りだったといったような、言うてもらわんでもいい。そういう雰囲気が全然ないという事。あれ達が頼まんならん事があるけん参ってきよるという雰囲気。何時の場合でも、これは私がなんぼ御用させて頂いても御用させて頂いてもそれなんです。あれをこれをしてもらわんならん。頼まんならんからあーしておるで。私の真心、今日真心の出しようがない。私もどっちかというと、そのあまのじゃくの方ですから、謎掛けられてからも御用しよごとない。だから私が善導寺に御用させてもらうというのは、何時もこりゃ親先生のまあ意表をつくというか、親先生が今日椛目から米一表お供えするじゃろかというて採算する。お酒の十本ばかり持ってくるじゃろうかと思いよる時に、私が五十本も六十本も持っていく。いよいよ必要となる時には、まあー言われてからではいやなんです。私はですからこれがです、例えばほんならそういう事に思いもなるまいけども、あれ達がこれば頼まんならんけんこげんしよると言われておる間は、私の真心の出しようがない。ここのご信者さんでもそうです。大祭でもたくさんお参りになるけども、やっぱり親先生の機嫌を損うちゃならんからという気分も半分は交えてのお参りであるということでしょうが。
 これは例えば私が一日も早よ教会にならせて頂いて、設立のおかげを頂いたらです、私が一本にならせて頂いたらです、私の思う存分という事は出来なくても思うような御用が出けるだろう。いよいよ親先生も喜んで下さることが出けるようなおかげになってくるなと。こりゃ一日も早よ、こりゃ言わば独立のおかげ頂かなければ、いつまでもろっこく的なそのあれではいけない。この頃もその話があった時に、二、三の信者さんが憤慨してました。自分がこう言う経由、教会長にならして頂くのは良かろうばってん。それやらお初穂やらお供えして、自分の教会長の権限でございますからね。に焦点置いてから、うちの親先生はなんちゅうお方じゃろうかというような雰囲気にまで椛目の方がなってくるのです。そういう意味で、私は一日も早よ椛目が独立のおかげを頂かなければいけん。ここんところを親先生にも分かって頂いてです、そんな事はありますまいけれども引きなぶておけば、引きなぶてあれども、どうかして出来てくる違いない。あーもするに違いないというようなものがもしあるとするならば、これは由々しい事だと。私もおかげ頂かなければ、親先生も親教会もおかげにならんと私は思うと。
 z昨日の朝であった。繁雄さんとこの長男の邦夫さんがお参りしてまいりましてから、二、三日ご無礼致しました。二、三日先生こう言うような御神夢を頂きました。この広前が広うなった。その私の周囲に椛目のご信者さんがたくさんおられる。その遠巻きのようにしてから、ははーあの方達がよその信者さん方ばいなーという信者さんがいっぱいおられる。椛目の人達はもうそれこそ、さながら生神様に接するようにして親先生を生神様の様に扱こうておられる。それを遠巻きの人達は、言わば大坪さんと言うような見方をしておる。そういう中で私が御神前に扇子のお供えをしておる。ところがその扇子が後で縛られない。広がったままお供えしておる。そしたら秋永先生がやってきてから、先生くるま?おしてからお供えして下さいと言うて自分のお扇子を開いてから開いた。まあお三宝にのせてから、お供えをされたところを頂きましたと父が帰って参りましてから、今日は椛目でこう言うような十五年の記念祭がまあ秋頃控えておるが、その事について委員会が出けてこう言うような話がありよるげなと言うような話を聞いた時に、はあーその事じゃったばいな。僕は分からんけどもおぼろげながらそういう風に感じたと言うて、昨日もそれから先も参ってその事を言うておりました。はら僕達が本当にぐずぐずしておられん。僕達がおかげ受けないけん。扇子のお供えというのは、末広ということである。私の信心と秋永先生の信心はどちらかというとぱあっとした信心である。もう広がったらさあー締まらんような広がりぱなしにおかげ頂いていこうというような私の生き方である。
 ここ十四年間のそれを見てから、それを感じる。だからこれが締ままる必要がないのである。そこで私だけがおかげ受けたんではダメ。皆さん、秋永先生のそりゃこの頃委員長をしておりますから、委員長が皆さんの代表でです商品を扇を一緒に重ねてお供えをしておるということ。これはいよいよ私が、実力を受けなければいけない。おかげを受けなければいけない。私だけではいけない。皆さんも一様にそのおかげを受けなければならないと。そこに初めて皆さんが、私を生神様の様に言わば扱うて下さっておる。成程あれじゃおかげを頂かれるはずだ。あれじゃ良い信者が育つはずだということが遠巻きの信者方もそれを感じて下さるようになった時にです、私は神様も又人も、椛目を教会として認められるようになるだろうと私は思う。せっかく頂くのである。これは私の心情なのである。いいんだよ。いいんだよ。私がおかげ頂く以外になかが。私が力頂く以外にない。皆さんがおかげ頂く以外にないとその事を、そういう例えば、邦夫さんが頂いておるお知らせはそういう事なんだと私は思う。
 皆がまだあそこは教会じゃなか。大坪さん、例えば言うような見方をしておる間はです、ところがいくら大坪さんであろうが教会でなかろうが、あの比礼を見たならば、これはそこに何か感じずにはおかず。その中心である先生もそれは今までの大坪さんだけでは済まされない事に段々もう実力がそれを示していけれるだけのです、おかげを頂かなければならないなと。問題はあれでもなからなきゃこれでもない。だからこれは、私と善導寺ここのお広前の生誕という事は、又は教会設置という事についての私の人情と心情である。私の人情では、これは親先生に話して分かって頂いてでも、親先生そうなさらなければ私と貴方、椛目と善導寺の本当の繁盛になってこない。一日も早う親先生は椛目も教会に又に教師にお取り立てにお取り立ててやろうという事になさらなければです、いつまで経ってもそこに言わばこれを頼まんならんけん来よるとじゃろといったことが続いたじゃいつまで経っても同じ事繰り返さんならん。
 そしていわゆる、今日、私が申しましたところの真心というのは、使い場がなくなってしまう。そこで私が一番始めに申しましたように、この方の道は、真一つで、真心一つで、親切を持ってとすれば助かるというのに、皆さんがもし助かっていないとするならば、真心がちょっとおかしいなと悟らなければいけないと思いますよ。ここんところを風を言葉で表現する事は出けません。言うならば心情と人情の真ん中のようなところにあるんだ。真心とは。氏子はそれを持って助かることになっておるのであるから、どんなに動かないものでもです、例えばですここに製材所がある。精米所がある。電気でジャジャとその日に十表その白米をする事がでけるような機械が座っておってもです、スイッチを押さなければ動かせんです。人間がこうやってしたっちゃしれた事ないでしょうが。けれどもほんなボタンいっちょ押したらげーとこう回りだすようなものじゃないでしょうか。真心一つというのは。真心のボタン一つ押せばです、今まで押せども引けども、どうにもならなかった問題がおかげになってくるのですよ。私どもはその真心を追求しようとせず、その真を探そうとせず、そしてその問題を問題にしていよいよ問題が問題を呼んでいくというような結果になっていくのです。まあ今日おかげ頂いた私が、もう?申しませんでした。
 原さんの娘さんが二人お参りになった。上野さんと二人で昨日出てきた。子供ひっかろうてからもうお母さんがお届けに見えた。それがあなた聞いてみて、ばかんごたるです。ケンカした主人が?言います。どこからか泥棒猫が入って来たち。その泥棒猫がそのなんか自転車屋さんですから、なんか金具を持っておるもんですから、その投げ付けたら当たらん。そいけんそんな事しなさんなもう向こうは性根の悪かけんでそんな事しなさらんが良かですばいち言うてん、それから猫に早よ逃げられちから猫を逃がしたげな。それから腹立ててから猫を怒らし?
それが?原因だったと原さんがお届けなさってから、そんな事じゃったのとは言われなかったですね。やはりさすがにまあ椛目で一日でも二日でもこちらに居ってから、御理解でもようと頂いてね自分というものを見極めてから、そしてから帰らんねちいう風にまあ言うておられたらしい。ところが神様が御都合下さるですね。丁度ご祈念、御理解頂き終って皆さん一息ついたところで?頂いてから、又その戻して行かれた。そこに北野のお母さんが又もう一人の孫を連れてからお参りして見えた。一緒になった。こりゃ自分がここでご祈念しよごとなか。顔合わせようごとなかち。それからすきを見るようにしてから上野とみ子さんがです、ところがですここで子供が二人おるもんですから、自分がご祈念してから子供に分からんようにまんまんよち言うて話しよるばってんもう二人立ち上がって、子供ひっかろうちから出て行ってしもうた。
 そんでから、又後を追うてからお母さんが出ていかっしゃった。そしてから?のお母さんが言われるのですたい。私も身体がちょっと具合が悪かけん。もう大概いい加減堪えちからいっちょ早よ帰ってくれんねち。そうばってん私が追っ掛けんからち、腹かいちょなさるけんで敏夫さんにこっち来て下さるよう言うち下さいと言うてから子供二人連れてから帰ってしもうたち。それで又お母さんがやってきてから、ちょっとムカッとしてござる。今ケイコさんにそげち言いましたばってんが、ケイコさんがもうとにかくニコッともせんごとしてタカコも連れて帰りました。それは先生どけな意味でございましょうか。あっちが帰ってきてもらえるためならば、その戸畑の方に娘が仕事にいっておりますから、愛子さんですたい愛子さんを家に寄りつかんごとこっちの面倒見てもらわなければでけんと言うてから、私が少し声色変えてから私がそはばさんを怒った。上野さんその根性があるとが、あんたげん家の中に妙なもんがでけるとよと私が申しました。分かるでしょ、ばばさん。お嫁さんが出ていかっしゃったけんで変わりに、娘ば呼ぶその根性がいかんとよと私が申しました。帰ってこんなら帰って来てもらわんでもよかという雰囲気が、そこに出けたらどうするかち。と言うてからあんたが父さんに言うこともいらん。呼びに行け、なんが男が連れにいこうか?
 もちろんそれはですね、向こうが原因のようにあるけども、向こうの前にあれやこれやそれこそ遺恨が重なってそういう風になったんだと私は思うんです。必ず敏夫さんと二人夫婦だけのことじゃない。親の上にも、兄弟の上にも、何かが重なり重なってそういう風に爆発したのである。信心させて頂く者はです、そういう問題が起きたたびに、どの様なささやかな場合でもですその問題をおかげにカタットしていかなければいけないということ。この問題のおかげで、こげん分からしてもろうた。考えてみれば、神様の思いの現れであった。それをたまるたまるからいけんのである。それを一つ一つおかげにしていっとかなければならん。日頃にそれをぐーっと堪えておるだけであるから、いよいよの時に言わば向こうが悪かちという事になってくるのですよ。爆発しておる。そういう時にです、今日私が言う、私の真が欠けておった。私の真心が足りなかったというような事を悟らして頂ながら、その問題を解決していって初めて、家庭平和というものがあるのじゃないでしょうが。それこそ善導寺に出掛けようとしよったら又黙ってきた。私に何か言いたかそうにしとったばってんニコッと笑った。あんたが気分が良かなるまで善導寺におるが良かがち言うて私が言った。今日又後からお母さんが出てみえてからです、おかげ頂いてから主人が送って参りました。あの電車の所まで、そして親子三人で帰りました。親の意見もありましょう。そしたらすぐそのお母さんがばばさんの方が二人孫連れて出てきた。もう涙流してから、帰ってくれてから、はばさんがもう済みません。心配掛けまして、それ一こと言うてもろうたらもう何もかも、雨降って地固まるようなおかげになったと言うてから、今日申したことでございます。
 それはどうじゃろうか。本当に例えば主人が昨日ほんなら寄りつきがあるとか帰ってもらおうごとあるならば、あの帰ってきてもらわんでもよかち言うことになったら、いよいよ問題が複雑になっていくですね。これは私どもは問題にもならないことを問題にしておる。いやその問題こそ、私どもがです真心の追求であり、真親切の追求させて頂くもう好材料です。問題が問題を生んでいくような元にしていっておるということはないだろうか。信心、家庭に不和がなきが元と仰るがです、ただ黙って堪えてるだけじゃいけません。その問題がこりゃ自分の真心の欠如である。この親切が足りなかった。この親切が過ぎておったというところを改まて、言わば人情の限りを尽くさせてもらい心情も限りを尽くさせてもらい、しかもその人情の限りを尽くさせて頂く時には、実意丁寧をもって私は真心というところをですね、もう迂闊に真心を使うと使いすぎる。コショウ振りかけた。コショウならよかですたい。こりゃあんたが三日か四日内に堪えてんの大丈夫死ぬち言うても、それがまちっと大きな問題であったて言うても、私にこげんコショウばかけちて腹かきなさらないけんでしょうもほんなこつこげな事なかち皆言い寄んなさる。私にご飯ば食べんなと言わんばっかりな事さっしゃるというような事になってくるでしょ。それは始めの間は、その親切であったのが、それが過ぎるとそおいう事になるのです。
 私は今日の御理解です。お互いが神心どちらかというと、神ながらの方が強い。神ながらだけでもいかん。人ながらの限りを尽くさんといかん。人情の限りを尽くさなければいけん。しかもその人情がです、言わばその人情がです真心であるか親切であるか。おかげの頂けるところの真心であるか親切であるかという事をです、確かめさせて頂くだけの実意を持ってその真心とか真とか親切というのを追求していかなければいけないと私は思うんです。もうこげんすれば、先生がお喜びなさることは分かってるばってんとこれなんかはもう真心のそれは私の人間心じゃろからと言うてそれをせないけん。そう例えば思うたなら、それを本当に生粋な真にしてからそういう風にさせて頂けるところにです、開けんはずの言わば道が開けてくるのです。人間の知恵やら力ではとてもこれがおかげになるはずがなか。もうこれがあんたおかげになるなら枯れ木に花と言っていいごたるようなことが、その真心一つを追求してまいります時にです、展開していくのです。
 製材を横ば、私どもが一生懸命まいたっちゃ言わばあげな大きな材木を引き割るような力にはとてもなりゃしません。だからこげなこつば一生懸命、私ども無駄な力を欲しておるような事はないだろうかと。言わばどりおりをしておるような事はなかろうか。それよりもね、とにかく真心とは真とはどういうわけでおかげにならんのかという事のです言わば私は助かられんのかという事をですたい、その真、真心を追求してまいりますとははぁーここに真心がこれだったというものを私は出さして頂く時に、今まで動こうともしなかったものがどーと動くようになる。天地が同じについてこられる。天地が動いて下さる。そういうおかげを頂く。もうこりゃ参ることは参ったばってんおかげ頂ききらんやった。あなたが真心が分からんからただ参るだけじゃ真心は分からん。私が親切と言うておる。真心と言うておる。その真心が親切がどこまで本当なものであったかという事を追求していかなければならん。そこに又稽古、又問題がありましょう。だからその問題を繰り返し繰り返し追求させて頂いておかげを頂いていかなきゃいけないと思うんです。
 木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言うような心持ちになれよ。何事にも信心になれよと今日私が申しました真とは、真心とはと言うようなところに焦点を細こう使わせて頂いて、言わば私の真心の限りを尽くさせて、それが動かんなら又追求していっておかげを頂いていく。そういうような心の中にそういうような精進の中にです、不思議に私どもの心の中に許されるのは、有難いと言う心なのです。それはもう神様が喜んで下さるからなのです。真心を追求しておる。まだ追求し終えていないけれども、真心は真心はと追求している姿を神様がご覧になって喜んで下さるのです。その喜びが私どもの心の中に有難いという風になって生まれてくるのです。ですから、木の切り株に腰をおろしても、立つ時にはお礼をいうような心持ちが生まれてくるのです。だからその心に、おかげが頂けるのです。この方の道は喜び一つで助かる道ということを一生懸命精進させてもらわないけん。
 精進させて頂いているはずの私どもがです、それを時たまです、問題を問題にしていくような事をするから、今まで喜びで開けよった道が又あやふやになってしまっておるようなおかげをこむんなものにして行っておるような事はなかろうか。ですからそこんところを決し抜かなければいけない。この方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせぬ。だからそれを喜びをもってです、しかも生き生きとした勇をもったところの心、勇心をもって私どもが有難いという事になっていかなければ、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言うような心持になるということはそう言うようなこと。その心にいよいよおかげがおかげを生んでいくという事になってくるのです。私どもが問題をおかげにして行かな、おかげにしなければならない。おかげになるはずの問題をです、問題をいよいよややこしい問題にしていっておるような事はないだろうか。その原因を調べてみると真心、親切の欠如である。そこに精進をしていないのである。そこに焦点を置いていないという事になるわけですね。おかげ頂きました。